ミセルチカラの磨き方
承認欲求の奥底にある気持ちとは?
心意気を形にするコトノハ職人、岩井洋美です。
今年は花粉の飛散量がすごいですねぇ。
朝起きると家のベランダには大量のスギ花粉がかたまって黄色い線になっています…朝からゾッとする光景。
先日同じ日に別々の人からこんな言葉を聞きました。
「別に認められたいわけじゃないんですよ」とAさん。
「承認欲求が加わったところで個性とは言わない」とBさん。
どちらも「承認欲求」の話ということになるでしょうか。
Aさんの「認められる」は「褒められる」という意味合いもの。
Bさんの「承認欲求」は「自己顕示欲」に近いもの。
この「承認欲求」ですけれど、心理学だけのことに限らず、今は一般的な情報として多くの人が知っています。普通に「承認欲求」という言葉も使いますしね。
ただ、「承認欲求」というひとくくりにして考えるのは難しいとセッションをしていると思います。
Aさんの「別に認められたいわけじゃないんですよ。」には「お客様にありがとうって言われたい」が続きます。
「いやいや、これも承認欲求ではないのか?」と言いたいところですが、Aさんとしては「認められる=褒められる」ということなので、あくまでも「認められたいわけじゃない」になるようです。
お客様に限らず、誰かに「ありがとう」と言われるには、信頼があったり、感謝があったり、尊敬があったりするわけだから、「それも『認められる』に含まれないんですか?」と質問してみましたが、納得できないようでした。
Bさんの「承認欲求が加わったところで個性とは言わない」の前には、「個性を発揮するということは素晴らしいし喜びだ」というのがあります。
今や「多様性」という言葉も手伝って「他の人とは違う」「その人独自である」ということを「個性」としてとらえられるようになりましたから、個性が素晴らしいということも分かります。
「いやいや、その個性が承認欲求で変わるのか?」と言いたいところですが、Bさんとしては「承認欲求を持ったところで、個性は個性でなくなる」になってしまうわけです。
「承認」という言葉に引っ張られると「認められたがっている」というイメージになるようですが、みなさんもそのように思われますか?
- 誰に認められたいのか?
- 何を認められたいのか?
- どのように認められたいのか?
人によって違いはありますが、結局のところ、誰であろうが、何であろうが、どんな風にであろうが、「受け入れられる」ということこそが承認欲求の答えになるように思います。
「受け入れられる」という場合、受け入れるのは自分以外の人からということになりますが、実は一番深いところでは「自分が自分を受け入れたい」という気持ちが潜んでいるのだと思います。
こういう言い方をすると、また「受け入れる」という言葉に引っ張られそうですが、私の感覚で言うなら、「受け入れられないのは、どこかで自分のことが好きになれないから」ということです。
「だから、自分のことを好きになりましょう!」なんてことは言いません。それが簡単ではないこともよく知っています。
どんなに好きになる方法を教えられたとしても、最終的には自分の意思と覚悟でしかありません。
私は「意思」と「覚悟」のためのボールを投げ続けるしかないので、今週もこちらをお知らせしておきます。
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では、今日も1日お元気で。
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